亡き人の願い

車で3時間ほど走ったところに両親の墓があります。
私は盆と彼岸には欠かさず墓参りをしてきました。
しかし、最近は体力的につらくなってきまして、
今年のお彼岸はとうとう墓参りをすることができませんでした。

あれは30年ほど前、父が亡くなったときのことです。
私は初七日までの間、毎日仏間で寝ていました。
何日目だったか、夜中に耳がこそばがゆくなった気がして目を覚ますと、
耳元で父の声が聞こえたんです。
「参りにきてくれよ」

私は急いで起き上がって仏壇に手を合わせました。
そして涙がポロポロ溢れました。

それから盆彼岸の墓参りを欠かしたことはありません。
年をとり、毎年欠かさずという訳にはいかなくなりましたが、
時おりあのとき聞いた父の声を思い出すのです。

これはお墓を自宅近くに引っ越そうかと悩んでいる方の相談の中で聞いたお話しです。
お彼岸に墓参りできなかったことが、思いのほかショックだった様子。
「参りにきてくれよ」お父さんの声が今でもはっきりと耳に残っているのかもしれませんね。

このお話を聞いた晩、しみじみと思い出していますと、ふと思い当たったことがあります。それは「参りにきてくれよ」と聞こえたお父さんの言葉です。
阿弥陀さまのお浄土は苦しみのない国です。そこに生まれた故人が願うのは自分のことではなく残された者のことではないでしょうか。
「墓参りにきてくれよ」と聞くならば、それは苦しみの消えていない者の言葉です。そうではなく、若くして父を亡くした息子に、
「人生は辛いこと悲しいことがいくらでもあるけれど、決して一人ではないよ。いつでも仏さまがご一緒してくださるのだから、そのみ教えに出会ってくれよ。お寺に参ってくれよ。お聴聞してくれよ。」と聞かせていただくべきではないかと。

お墓参りに行けなくなるのは寂しいことですが、
けっして故人が寂しいわけではありません。お浄土は苦しみのない国。
寂しいのはわたし。寂しい、会いたいと願うとき、そんな私を一番気にかけて、どうすれば救うことができるかとじだんだ踏んで悩んでくださった阿弥陀さまのお話を聞かせていただくのです。
わたしが願うその前に、阿弥陀さまに願われていた私でしたと聞かせていただくのがお聴聞だと思います。お聴聞はいつかでも始められます。どうぞお寺にお聴聞しにいらしてください。

住職の日記一覧へ戻る