住職の日記

本願寺念仏奉仕団!(二日目)

さて、二日目です。
本願寺ではお晨朝(おじんじょう)と言いまして、
毎朝6時からおつとめをされています。

参加は自由ですが、念仏奉仕団で来ている方は、
みんな参加していたようです。
早朝のキリッと引き締まった、本堂の空気の中にいると、
まだボンヤリとしている私の頭もすっきりとしてきます。

おあさじ おあさじ2

本堂の中はまだまっくら。
全員で正信念仏偈を拝読しました。
実は当寺でも毎朝九時からおつとめをしているのですが、
ほとんどは私ひとりでのおつとめです。
たま〜に、一人二人と来てくださる方もあるのですが、
なかなか難しいものです。
久しぶりに大勢のお仲間に入れてもらってちょっとした感動でした。

おつとめが終わって出てくると、
今日もいいお天気のようですね。

 

二日目のお掃除は、境内のお庭でした。

お掃除二日目 お掃除二日目2 お掃除二日目3 お掃除二日目4 お掃除二日目5 お掃除二日目6

ここは、普段は一般の方は入ることができない場所です。
ご門主さまのお住まいがすぐ近くにあり、
私たちも立ち入ることができない場所もありました。

でも、今日もやっぱりワイワイガヤガヤ。
二日目ともなると慣れてきて、みなさん適当にさぼっておしゃべりしてます。
職員さんによれば、それが良いのだそうで、他府県の方とどんどん交流を
深めていただきたいとのことでした。
写真をたくさん撮ったのですが、
女性群の写真は一応ここでの掲載を控えましょう。

あっと言う間に、二日間の清掃奉仕は終わりました。
本願寺からのお礼ということで、
書院にてお抹茶の接待をしていただきました。
こちらの書院も、一般の参拝者は入ることができません。
こちらも国宝の指定を受けていて、素晴らしい建物でしたよ。

書院 書院3 書院4 書院5 書院8 書院9

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書院10 書院11

書院の中は一見の価値ありです。
これが見れただけでも、参加した甲斐がありました。
お抹茶とともに出されたのは、松風というお菓子で、
本願寺が織田信長と戦っていた頃、兵糧の為に作られたお菓子だそうです。
なんとも素朴で、味わい深いお味でした。

書院の次には、飛雲閣を見学させていただきました。

飛雲閣

飛雲閣(ひうんかく)は、金閣、銀閣と並んで
京の三名閣と称され、こちらも国宝に指定されています。
屋根の形が独特で、雲が飛んでいるように見えることから名付けられたそうです。
しかし、割烹着姿の女性がたくさんで、やっぱり不思議な光景ですよねぇ。

これで、本願寺での活動日程は終了です。
初めての体験でしたが、皆さんのおかげでとても楽しく過ごしました。
参加者の中には、30回目の参加をされた方もいらっしゃり、
毎回楽しみにしているそうです。

当寺の檀家さまは、まだまだ参加されていないのが現状ですが、
これを期に少しずつお誘いしていこうと思っています。
参加されたNさんは、帰られたあとに寺まで電話をくださり、
「とても楽しかったです!また次回も参加したいです。」
とおっしゃっていました。

西野さん2

次回の念仏奉仕団は秋です。
10月の13日、14日の予定ですよ〜。
またお知らせいたしますので、ぜひご参加くださいね。

 

 

本願寺念仏奉仕団!(一日目夜)

私たちの宿舎は門法会館(もんぼうかいかん)といって、
本願寺の運営する宿舎です。
もちろん一般の方も宿泊できます。

門法会館では毎日夜7時から、
一階のお部屋にご講師をお招きして、
法話を聞かせていただけます。
門法会館に宿泊するからには、それを聞かないと
もったいないことです。もちろん無料です。

ご講師は、福井県から来られた布教使で高務哲量先生でした。
お坊さんの法話というと、どうしても「難しいはなし」
という印象を持ってしまいますよね。
(私もそう)
しかし、高務先生のお話しは仏教用語が少なく、
とても親しみやすい内容でした。
よほど研鑽を積まないと、あのように優しく伝えることはできない
のではないでしょうか。
同じ僧侶としては、すごく勉強させて頂きました。
この夜の法話は「会えてよかった」というお話しで、
先生の体験をもとに話されていました。

あのように上手にお話することは、到底できませんが、
今後は私も、法要の席などでその夜に聞いたお話をご紹介していきたいです。

法話のあとは、夜の京都へくり出していく人と、
明日に備えてゆっくりする人に行動が分かれます。
翌日聞いた話しでは、和歌山組のおじさん方は、
祇園でカラオケとダンスを楽しんだそうです。
(それが楽しみで参加されている方もあります)

私はちょっとやることもあったので、宿に残りましたが、
次回は参加してみようかな。

 

本願寺念仏奉仕団!(一日目)

本願寺には昔から念仏奉仕団(ねんぶつほうしだん)
という催しがありまして、本願寺境内のお掃除をするために、
全国各地より門徒さんが団体でやって来られるんです。

本願寺では、その目的として「本願寺の清掃奉仕を通して、
愛山護法の念を深め、親鸞聖人のみ教えに学ぶとともに、
仏恩報謝の生活にいそしみ、
真の念仏者としての自覚と意識を高める機縁とすること」
としています。
何やら難しそうですが、それがどういったことなのか、
私が身をもって体験して参りましたので、
写真とともにレポートしたいと思います。
なにせ初参加ですから、ドキドキしながら参加させて頂きました。

DSC_0744

当日はいいお天気。
朝九時半に城北小学校横にある鷺ノ森別院に集合して、観光バスで出発です。
当寺の属する和歌山組(わかやまそ)からは31名の参加でした。

山科別院1(小)

本願寺まではバスで約2時間、
みんなでワイワイガヤガヤ、あっと言う間に着きます。
以外と近いんですよ京都は。

到着すれば、一息つく間もなくさっそくお掃除の準備です。
女性はなぜか割烹着(かっぽうぎ)の方がほとんど!
昔からの伝統なのでしょうか。
観光で来られた外国人が割烹着姿の女性たちを見て、
「あの人たちはお医者さんですか?」とたずねられたそうです。
本願寺の職員さんが、「いいえ、あの方々は全国から集まったボランティアです」
と伝えると、その外国人が一言「グレイト!」と言ったそうです。

安穏殿

ワイワイガヤガヤ、どんどん割烹着が集まってきます。
和歌山組以外にも、地元京都、長野、滋賀、兵庫、香川、山口と
全部で9団体、総勢336名の大所帯!

安穏殿2

準備ができるとタスキが配られます。
私たち和歌山組はオレンジ色のタスキ。
団体によってタスキの色を変えてあり、
違う色のタスキの方との交流もまた楽しいものです。

ご年配の方が多いからでしょうか、
初対面でもみなさんすぐに打ち解けてしまいます。
同じご門徒同士ということで、安心感もあるのだと思います。

西野さん

今回唯一参加の、当寺のご門徒さんであるNさんと。
二人とも少し緊張していますねぇ。

安穏殿3

開会式とレクリエーションの様子。
本願寺の職員さんは、とても面白い方で、終始笑わせていただきました。
緊張していた参加者も、ここで気持ちがほぐれたと思います。
念仏奉仕団は、本願寺の宝であるという、ご門主さまの言葉もいただきました。

清掃一日目

いよいよ、一日目のお掃除場所である御影堂(ごえいどう)に移動です。
御影堂は、ご本尊を安置してある阿弥陀堂のとなりにある大きな建物で、
阿弥陀堂と並んで国宝に指定されています。
御影堂には親鸞聖人の御影が安置されています。
国宝のお掃除ができるということで、みなさん張り切ってます!
畳は441畳もあるのですよ。

清掃一日目2 清掃一日目3 清掃一日目4 清掃一日目5 清掃一日目7 清掃一日目8

相変わらずワイワイガヤガヤ(笑)
でもそれがいいんですよね。

お掃除をしている間に、
本願寺の職員さんが、
みなさんに聞こえるようにマイクでインタビューをしています。
「お父さんはおいくつですかー?」「ええ!91歳!」
それを聞いた会場からは拍手です。
すごいですねぇ、五回目の参加だそうです。

みなさんのおかげで、御影堂はぴっかぴか。
(もとからぴっかぴかなのですが)
私はカメラを手に写真を撮り回っているうちに
お掃除は終了してしまいました。

美しくなった御影堂の前で整列して、
「はい、お撮りしまーす!」
ご門主さまと記念撮影をして、この日は終了です。
私は初めてご門主さまの真近に立てたことが嬉しかったですね。
(ご門主さまがいる間は、写真撮影は一切禁止なんです。)

 

 

 

 

同じいのちを 生きている

本願寺教団より届いた文章が
とても大切だと思ったのでご紹介いたします。

知らぬふり いじめや差別の 根が育つ

あなたと私 同じいのちを 生きている

人は男女の性や性格、生活、生まれ育った国など、皆それぞれを異にして生きています。
そして、みんな等しく幸せを願って、精一杯生きています。
ところが一生懸命に努力してもうまくいかず、苦しむことがあります。
周りの人から認められず悩みます。理解されず仲間はずれにされたりもします。
そんな時、心が痛くむしゃくしゃして憤ります。
やっとの思いで口に出し、身体で表現しても、周りの人には無視されたり
知らぬふりをされたりします。また、その逆の立場もよくあります。

今まで私たちの社会は、理不尽な差別やいじめに対して、
自分に都合のよい理屈を見つけて人を傷つけてきました。
そして、私に差別の心はありませんと、自らの行為や気持ちを肯定してきました。
また、差別されている人にその理由を押し付けて平気でいたのです。
差別やいじめを見て見ぬふりをし、知らぬふりをして見逃していく中で、
差別の根っこが残り、やがて大きく育っていきました。
この根を断つためには「差別は犯罪だ、沈黙する者も共犯だ」と声をあげなければなりません。

同じ時代に生き、同じ社会に生き、同じ地球に生きる私たちです。
共に生きるためには、お互いの理解と協力が必要なのだと、
お釈迦様は慈悲と智慧のたとえをもって教えておられます。

「涅槃経」に「如来は子牛のごとし」というお話しがあります。
子牛が親について少しも離れないように、仏さまのお慈悲の心は、
私に寄り添い離れることなく、「他人も自分もないがしろにしてはいけないぞ」と
いつもついてきてくださるというのです。

私たちは今、かけがえのないいのちを生きています。
一人ひとりのたった一つのいのちを生きています。
けれどもそのいのちは、決して一人では生きられないのです。

私たちは親鸞聖人のみあとを慕い、平等に徹し、平和を願う念仏者として、
差別・被差別からの解放を自ら体現し、共に歩んでまいりましょう。

 

念仏奉仕団に参加しませんか?

念仏奉仕団とは、京都本願寺のお掃除をする方々のことです。
当寺の檀家さま以外でも、どなたでも参加できます。

ご本山である本願寺の清掃奉仕を通して、
親鸞聖人のみ教えに学ぶとともに、
念仏者としての自覚と意識を高める機縁とすることを目的として
定期的に実施されています。

ですから、清掃をするだけではなく、
龍谷ミュージアムの観覧や、
本願寺僧侶によるご法話を聞く時間も設けられています。
特に、普段は入ることができない書院を参観できたり、
抹茶の接待が受けられるのは魅力ではないでしょうか。

毎回楽しみにしていて必ず参加される方もいるそうですが、
実は私はまだ参加したことがなく、
今回初参加をさせていただくことにしました。

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鷺の森別院にて

浄土真宗本願寺派の「鷺の森別院」にて開催された
講座に参加してきました。

どちらも難しい内容であるにもかかわらず、
講師の先生方は私のような無学な者にも分かりやすく話してくださいました。
ほんの一部ご紹介します。

中国南北朝時代の曇鸞(どんらん)というお坊さんの書物からの引用です。
「喜び」ということについて、
自分の欲しいものが外から入って来る喜びというものがあります。
目・耳・鼻・舌・身体で触した感覚的な快楽のことで、
たとえば、「新車を買った」とか「美味しい料理を食べる」などです。
私たちの欲求する楽しみとは、普通こういうことですよね。

ただし喜びは、手に入れたと同時に「それを失いたくない」という
苦悩がセットになっているということ。
喜びには必ず苦悩がセットでついてくるのです。

しかし、私たちの本当の喜びには「苦悩」はついてこないのだそうです。
つまり、失う心配がないということであり、本当に安心して生きるということ。
それは、手に入れるものではなく、仏さまから受取るものだということです。

どういうことでしょうか?
このブログを書きながら、ネットでもたくさん調べてみましたが、
よく理解できませんでした。

実はこのブログ、かなりの長文でしたが、
長い時間をかけて書いたのですが、よく分からない内容になってしまったので
ほとんどを削除してしましました。
情けないです。私の浅い理解では、まだまだ難しい作業でした。

今日は中途半端になってしまいましたが、
また次の機会に挑戦させてください。
考え過ぎてお腹がすきました。
トホホ。

DSC_0085

会場となった鷺の森別院の本堂。
上の欄間がすごいですね。

 

門徒もの知らず?

「門徒もの知らず」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
門徒、とは浄土真宗の信者さんのことですが、辞書をひいてみますと、
「浄土真宗の信者を、他宗の仏教信者が『仏教の作法を知らない』
と批判する際に使われる言葉。元々は
『門徒もの知らず、法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし』
という各宗派を揶揄する地口(じぐち)の一句からきている」
※地口とは駄洒落の一種、もしくは言葉遊びのこと …

とありました。
私たち浄土真宗の信者は昔から、仏教の作法を知らないと批判されていたようです。

 

 

実はお粗末な語呂合わせ

また、「もの知らず」という言葉は「物忌み知らず」からきているという説もあります。
物忌みとは、バチやタタリを恐れ、避けることです。
たとえば、日の善し悪しという言葉がありますが、
大安、仏滅、友引などが有名ですね。

みなさんはどうでしょうか。
結婚式は仏滅をさけて大安にする、友引には葬式はださない、
といったことをしてきませんでしたか?
現在では、ほとんどの結婚式が「大安」を選んで行なわれますが、

必ずしもすべての夫婦が幸せになっているとは限りません。
(ちなみに、昨年離婚した夫婦は約二十三万組もあるそうです。)

友引に葬式をしないのは、
死んだ人が親しい友を引っ張っていくからという理由です。
これは友引という字が、「友を引く」と書きますから、
そのように解釈したのでしょうが、全く根拠のない迷信です。
実はこれらは、中国の占いから生まれたものですが、
今ではその本家中国でも無意味なものとして使われていないという、とんでもない代物なのですよ。
少し考えればすぐに分かることですが、日に善し悪しなどあるわけがないのです。

他にも、物忌みには語呂合わせによるものがあります。
病院やホテル、マンションに4号室や9号室がないのを
見かけたことがあると思いますが、
これは言うまでもなく数字の「4」は死を連想し、
「9」は苦を連想することからきた物忌みです。
また、四十九日が三ヶ月にまたがる場合、
それを嫌って法事の日程を早めるということをよくしますが、
これは、「四十九日」を「始終苦しみ」と読んで、
「三月」を「身につく」と読み、合わせて、
「始終苦しみが身につく」という語呂合わせから来ています。
つまり、四十九日が三ケ月にまたがると、
自分たちに「始終苦しみが身につく」からしない方がいいということなのです。
これもまたお粗末な俗信ですよね。
四十九日とは、亡き方を偲び、また悲しみを癒す期間であると同時に、
この私が仏法に出遭うためのご縁にしていくことが大事なのです。

葬儀ともなると、物忌みのオンパレードです。
一膳飯に箸を立てる。遺体の上に魔よけの刀を置く。出棺時にお茶碗を割る。
お棺をぐるぐる回す。清め塩を使う。火葬場への行きと帰りの道を変える。
まだまだありますが、これらはすべて、死者をけがれと見て、
バチやタタリを畏れることから生まれた習俗です。
無知とはいえ、亡き方にこの上もない失礼なことをしているのです。

物忌みは、これ以外にも、方角の吉凶、家相、手相、墓相、占い、
まじない、厄払い等々、数え上げればキリがありませんが、
すべて迷信俗信のたぐいです。
親鸞聖人は、こうした迷信俗信に惑わされている人々を悲しまれ、
すでに800年の昔に、

悲しきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす

というご和讃を作られています。
意訳すれば、「悲しいことに、今時の僧侶や民衆は、
何をするにも日の良し悪しを気にしてみたり、
また天の神、地の神を奉り、占いやまじないなどの
迷信にかかり果てている」ということです。
科学の発達した今日でもこの言葉が
全く違和感なく受け入れられるところに、
私たちの根元的な「迷い」は昔も今も変わらないということを、
教えられます。

 

迷っている

浄土真宗のお経本の「宗風」という箇所には、
「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、
占いなどの迷信にたよらない」と書かれてあります。
「因果の道理」とは、世界の「もの・こと」が、なにを原因として、
(どんな縁によって)起こっているのかということです。
そこから目をそらして、神さま仏さまに「お願い」だけするという姿を、
仏教では「迷っている」と言うのです。
今の日本語で俗に「縁起が悪い」などというのは、
仏教本来の「縁起」の考え方とはまったく異なるものということを
知っておいてください。

江戸時代の儒学者・太宰春台が
「浄土真宗の門徒は弥陀一仏を信ずること専らにして
いかなることありても祈祷などすることなく、
病苦ありても呪術、お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」
と、
語っているように、門徒の暮らしぶりは、古くから
大変驚きの目で見られていました。
近年では友引に葬式を出したり、四十九日を三ヶ月を過ぎて行ったりして、
他宗の信者さんにたしなめられたそうです。
そんな時、浄土真宗の教えを持ち出して対立するよりは、
「門徒もの知らずですので」と自ら認めることによって、
穏便にその場を納めて指導には従わないことがあったそうです。
このように門徒自らが「門徒もの知らず」という言葉を
便利に使う場合もあったのですね。

 

 

信心深いということ

「門徒もの知らず」の言葉は、迷信や俗習に惑わされたり
不安になる必要のない真宗の安心のあり方を示すものとして、
むしろほこりを持って受け取られていたのではないでしょうか。
せっかく浄土真宗のみ教えにあいながら、
バチやタタリの災いが自分に降りかからないようにと気にすることが
「信心深い」というのであっては残念でなりません。
そのような事に心を惑わされない「門徒もの知らず」の強さに、
いまあらためて目を向けていきたいと思うのです。

法名について

戒名という言葉はよく知られていますが、
浄土真宗では戒名とは言わずに、法名(ほうみょう)と言います。

法名は、「私は今後の人生を、仏教の教えとともに生きて行きます。」
という決意を持っていただく新しい名前です。
ですから法名は、死んだ人の名前ではなく、
生きている私たちがいただくものです。

法名はご本山でいただきます。
帰敬式(ききょうしき)という法名を授ける儀式が 毎日行われていますので、
その儀式を受けていただくのです。
生前に、その機会が持てなかった方に限り、
例外として亡くなった後に取次ぎのお寺で 法名を授かることになっています。

私も、釋 真宣(しゃく しんせん)という法名がありますが、
釋はお釈迦様のお弟子になったという証で、
全ての法名には釋の字がついています。

そのあとは漢字二文字と決まっているのですが、
これを考えるのはなかなかに難しいのですね。
法名は自分で考えてつけることもできます。
内願(ないがん)と言って、帰敬式を受ける 二ヶ月前までに申請しておけば、
当日授けてもらえます。
自分で考えるのはとても良いと思います。

これからの人生をどんな風に生きて行きたいのか 考える機会になるでしょう。
ふさわしい法名がきっと見つかりますよ。

仏事のことは何も分かりませんので。

普段は、お仏壇のこと、法事などの作法のことなどは、
気にせずに暮らしています。

そして、例えば家族に不幸があった時や、
お墓の事で悩んだ時には、
お寺へご相談を頂く事が多くなります。

そんな時、最初によく言われるのが、
「何もわかりませんので。」
という言葉です。

はい、どうぞお気になさらず。
みなさん同じです。
なんにも悪いことではございません。
それどころか、今まできちんとお伝えしてこなかった
私の責任であります。

仏滅に法事をしてもよいのか。
お供え物の向きはこれでよいのか。
お布施の袋には何と書けばよいのか。
お布施に相場はあるのか。
お焼香のやり方はあっているか。
ご遺骨はいつまでに納骨するのか。
お位牌はいつまで安置するのか。
「チ〜ン」と鳴らすのは一回か二回か。
うちの宗派が分からない。

などなど、何でも結構です。
お気軽に質問してください。
僧侶にとって、一般の方の疑問は
大変参考になります。

この世もあの世も金しだい

「この世もあの世も金しだいですよ。」
こう言い放つ僧侶がいるそうです。
ひどい言い方をするなぁと思いつつ、
少し考えてみました。

まず、この世は金しだいなのでしょうか。
このことは、まず自分にとって幸せとは何か
ということを、しっかりと考えなければ
ならないのかもしれません。

自分にとっての幸せとは、お金がなければ
得ることができないものですか?

ここでひとつ、
お金とは私たち人間の考えたシステムであるということ。
私たちはそれをうまく利用することで、
便利に暮らしています。
うまく利用できないと、非常に暮らしにくい世の中です。
その世の中も私たち人間が作ったものです。
私たちの幸せは、そのシステムの中での出来事なのでしょうか。
そうだとすれば、たしかに幸せは
お金で得ることができるのでしょう。

 

そして、
あの世は金しだいなのでしょうか。
先日、このようなことを言われました。
「永代供養にするとあの世でワンランク上がると聞いたんですが。」
最初は話しがよく飲み込めませんでしたが、
ようするに、あの世にはこの世と同じように、
ランク付けがあり、この世で永代供養をすることで、
あの世で他の人より上のランクになれるということです。

僧侶として、これだけは言えます。
現代の科学では、死後の世界があるということは
証明されていません。
仏教は、何一つとして不思議なことは言いません。
ですので、あの世にもお金というシステムが
あるのかどうか、分かるはずもないです。
分かっているのは、「供養」にお金をかけるということは、
それはこの世で生きる私たちの行為であるということです。

 

結局のところ、今の私ははっきりと答えがだせません。
ただ、「この世もあの世も金しだい」この言葉を聞いた
時に抱いたあの嫌悪感のようなものを大切にしたいと思います。

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